序文

 私たちPVAJがボランティアを行なう『プレアビヒア』とは、どのような地域でしょうか?

 プレアビヒアとはカンボジア北部、タイとの国境近くの緑豊かな地域です。カンボジアの首都・プノンペンからおよそ400㎞、アンコール遺跡群からはおよそ150㎞の場所に位置しています。

 伝統的な仏教寺院・ブレアビヒア寺院からの絶景を誇り、貧しいけれど太陽と子供たちの笑顔が輝く、すてきな場所です。また、プレアビヒア寺院はその歴史の深さから、2008年7月、世界遺産に登録されました。

 しかしそんなプレアビヒアにも、長い間タイとカンボジアによる紛争にさらされてきたという暗い歴史があります。紛争の戦火はプレアビヒアが育んできた命や文化を奪っていきました。紛争で負った傷は深く、地域に根付き、プレアビヒアはカンボジア最貧地域のひとつとされました。

 これが私たちが支援する、『プレアビヒア』という地域です。 

 

 

カンボジア・プレアビヒア予備知識

 カンボジアとプレアビヒア(プレアヴィヒア)に関わる歴史などから理解を深めます。

クメール・ルージュとポル=ポト派

カンボジア地図(引用)
カンボジア地図(引用)


 カンボジアとプレアビヒアを知る上で欠かせないのが、『カンボジアの悪夢』と呼ばれるクメール・ルージュ(ポルポトが率いていたカンボジア共産党)支配の時代です。クメール・ルージュが実権を握っていた4年間で虐殺された国民は、国民の4分の1にあたる200万人と言われています(虐殺された人数は諸説あります)。

 

 ポルポトは、1928年5月19日(1925年5月19日)生まれ、1998年4月15日に亡くなりました。69歳でした。本名はサロット・サル、通称:コード87。ポルポトは仏領インドシナ出身で、フランスへの留学経験があります。留学中にフランス共産党の活動に参加し、共産主義に目覚めます。1953年にカンボジアへ帰国すると、教師をしながら民主党員として活動しま、民主党の左傾化を目論みながらその準備を進めていきました。

 1963年2月20日、おおきな暴動に隠れてひっそりとクメール・ルージュの書記長に就任しました。同年5月から国内の左翼派弾圧を逃れるために、ハノイや中国、ベトナムを転々とし、1966年に帰国しました。

 翌年の1967年、着々と準備を進めていたポルポト派が武装蜂起を開始しました。1970年、当時既に退位していた国王のシアヌークが、アメリカを後ろ盾にした将軍にカンボジアを追放されたのを機に、ポルポトとシアヌークは共闘関係を確立していきました。ポルポトは元国王の支持を得ることで、クメール・ルージュ勢力拡大の基盤を作っていきました。同年、カンボジア軍・アメリカ軍からの空爆により、クメール・ルージュへの加入者が激増しました。

 1975年4月17日、クメール・ルージュが首都プノンペンを占領。全権掌握後に、国名を『民主カンプチア』に改名。サロット・サルはこの頃から自分を『ポルポト』と呼び始めるのでした。同年中に、前政権閣僚を全員処刑しました。

 1976年4月2日、復権していたシアヌークを自邸に監禁し、政治運営が麻痺したところで、同年5月13日にポルポトが民主カンプチア首相として就任することになりました。

 就任後、現政権批判や蜂起をおそれたポルポトは、インテリ階級を弾圧し、大粛清が行われました。(解放直後は14歳以下が国民の85%を占めていました。)また、ポルポトは地雷を「完全な兵士」と称賛し、タイとの国境沿いに埋設するのでした。

 1978年、ベトナム戦争から間もなくポルポトはベトナムへ攻撃を開始し、5月にはカンボジア軍がベトナム領へ侵入しました。同年12月25日にベトナム・カンボジア戦争が勃発するも、1979年1月7日にはプノンペンが陥落します。軍の指揮官級が大粛清の犠牲となり、軍自体が弱体化したことが原因でした。プノンペンには、ベトナム影響下のヘン・サムリン政権が成立し、『カンボジア民主主義共和国』が誕生します。政権成立後、ポルポトはタイとの国境付近へ逃れていきました。

 1997年、ポルポトに終身禁固刑が言い渡され、翌年の1998年、心臓発作(毒殺か服毒自殺の可能性もある)で亡くなりました。

 のちに、プレアビヒアの隣県であるアンロン・ベンに墓所が建てられました。